2030年温室効果ガス46%削減は“本当”に達成できるのか?

要約
戦後から始まる日本の電力構造の転換:戦後の電力供給体制は、9つの電力エリアの独占化により安定化。その後、高度経済成長期に石炭から石油への転換が進み、オイルショックを契機に省エネや再生可能エネルギー、原子力への移行が進展。公害問題を背景に、クリーンな電力供給の必要性が高まり、エネルギー政策の大きな転換期となりました。
再生可能エネルギーと省エネ技術の発展:1973年のオイルショック以降、省エネと再エネが進展。特に「サンシャイン計画」や1993年の太陽光発電の普及開始が重要な転機。省エネ技術も進化し、LED照明や効率的な家電が日本の経済成長を支えました。再エネの普及は2011年の福島第一原発事故後に加速し、FIT法制定がその後押しとなりました。
2030年に向けたエネルギー目標と課題:日本は2030年までに火力発電を71%から41%に削減し、再エネを36~38%、原子力を20~22%へ引き上げる目標を掲げる。しかし、過去50年の成果を7年で超える必要があり、進捗速度が最大の課題。これを達成するためには、官民や個人の具体的な行動が求められています。
※本稿はこちらの動画を記事化した内容となります。
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電力の歴史
━━━現在や未来を知るためには、やはり過去を振り返ることが必要です。そこで、今日は狩野さんに電力の歴史について、非常に簡潔ではありますが、皆様に分かりやすく解説していただければと思います。
例えば、「脱炭素」や「カーボンニュートラル」という言葉は、今や誰もが耳にするほど広く知られるようになりました。では、その起点はいつなのでしょうか?
思い浮かぶのは、1990年代に始まったCOP会議や京都議定書といった出来事ですが、さらに遡ると、日本の電力のあり方の起点となったのは、戦後だと考えられます。
━━━戦後ですか、なるほど。
日本では電力会社が自由に取引できていた時代がありました。昭和初期のことです。この頃メインとなっていたのが石炭火力です。
その後、戦争が終わり、電力を安定して供給するために、9つの電力エリア(北海道、東北、関東、中部など)が設けられ、独占状態となりました。これは昭和50年代のことです。
この時期、日本の電力供給の主軸は石炭から石油へと移行しました。高度成長期を支えたこの転換は、日本のエネルギー政策における重要な転機だったと言えます。
━━━なぜ石炭から石油に変わったのでしょうか?
石炭は日本国内で採掘可能な資源であり、当時のエネルギー自給率は約58%でした。
しかし、石油は日本国内でほとんど産出されず、輸入に頼らざるを得なかったため、エネルギー自給率は15%にまで低下しました。それでも石油を輸入すれば解決できたのですが、日本が直面したのが昭和のオイルショックです。
さらにイラン革命が発生し、日本は深刻なエネルギー不足に陥りました。一次エネルギーの主軸である石油が手に入らず、国としての対応が求められました。
その結果、日本はエネルギー政策を抜本的に見直し、翌年にいくつかの重要な政策が策定されました。この政策は現在まで継続しており、日本の電力史の1ページ目とも言える重要な転換点となりました。
━━━なるほど。いくつか一次エネルギーの転換点があった中で、今おっしゃった73年のタイミングで作られた考え方や方法論が、現在も引き継がれているのですね。
その通りです。
1つ目の例として、原子力が挙げられます。今ではおなじみの電力源ですが、原子力基本法が制定された50年代当時は、具体的なきっかけがありませんでした。しかし、73年のオイルショックがその契機となり、翌74年に電源三法が制定され、新しいエネルギーとして原子力が注目を集めました。
※関連記事:【解説】原発再稼働で電気代はいくら下がるのか?
当時の日本は高度成長期にあり、工場での生産活動が活発化する一方で、光化学スモッグや排ガスなどの公害問題が深刻化していました。電力供給においても、クリーンな方法が求められた中で、温室効果ガスを出さない原子力発電が脚光を浴びることになりました。
━━━未来の新しい革命的エネルギー、という位置づけですね。
まさに「夢のエネルギー」と呼ばれ、74年以降、原子力発電の開発に邁進したことが、現在の姿につながっています。
もう1つの例が太陽光発電です。これも石油に代わる電源を模索する中で、73年のオイルショックを契機に「サンシャイン計画」が始まりました。
この計画では、太陽光の電力利用だけでなく、石炭の液化や水素開発など、多岐にわたるエネルギー研究が進められました。
━━━それがちょうど50年前の話なんですね。
はい。そして現在、屋根に太陽光を義務化する動きなど、さまざまな流れにつながっています。その起点は間違いなくオイルショックの時期だったと思います。

3つの転換点
━━━狩野さんのお話では、電力の歴史の中でいくつかの転換点があったと思いますが、これを3つに区切るとしたら、どのポイントが挙げられますか?
1つ目は、戦後に9つのエリアを設けて電力を独占化したことです。
2つ目は、73年のオイルショックを契機に、省エネや再生可能エネルギー、そして原子力への転換を図ったこと。
3つ目は、90年代に省エネが一般的な概念として広がり、脱炭素の取り組みが本格化したことです。
━━━省エネという言葉は、今では一般的に浸透していますが、それでも90年代の話なんですね。
そうですね、約30年前のことです。
━━━その時期に作られた概念というか、考え方ですよね。戦後の高度経済成長期を経て、物が豊かになった中で、次に目を向けたのがリサイクルやトレーサビリティだった。
私の若い頃は、大量生産・大量消費が美学でした。
しかし、90年代に入ると価値観が大きく変わり、持続可能性を重視する社会へと移行しました。
━━━そこに国際的な枠組みが生まれ、各メーカーや企業、さらには各国の取り組みが法律を含めて整備されていったわけですね。
その通りです。

「創エネ」と「省エネ」
━━━ありがとうございます。省エネが注目され始めたのが約30年前という話でしたが、最近では「創エネ」や「再生可能エネルギー」といった言葉も広がっていますよね。先ほどの話では、再生可能エネルギーという概念が50年前から存在していたということで、少し驚きました。
━━━私は現在28歳で、再生可能エネルギーという言葉を初めて聞いたのは、2011年の福島第一原子力発電所の事故の頃です。その頃から再エネというキーワードが広がり始めたという印象があります。
その通りです。福島第一原子力発電所の事故をきっかけに再生可能エネルギーが注目を集めました。
ただ、その前にも再生可能エネルギーが主要な電源と位置づけられたタイミングがありました。例えば、2008年の洞爺湖サミットで発表された福田ビジョンです。
━━━2008年ですか。
はい、その頃に日本は太陽光を主要な電源とすることを決め、本格的に法整備が進められました。
その結果、東日本大震災が発生した2011年の翌年、2012年7月にFIT法(固定価格買取制度)が制定されました。これは再エネ推進の大きな一歩となりました。
ただ、省エネと創エネは同時進行で進められてきました。エネルギーを作ることも、省エネすることも、結果としての効果は同じだからです。
例えば、日本は省エネ技術において世界トップレベルです。
40Wのエネルギーで60Wの明かりを生む蛍光灯、さらには7Wで60Wの明かりを生むLED照明のように、省エネ技術を家電や自動車に応用し、経済成長を支えてきました。これが日本の豊かさの基盤の一つだと思います。
再エネについては、1993年に初めて「再生可能エネルギー」という言葉が登場しました。
━━━1993年からなんですね。それは意外でした。
1993年は、京セラが日本の住宅の屋根に初めて太陽光発電システムを設置した年です。これが再エネの実用化に向けた輝かしい第一歩でした。
━━━僕は1993年にはまだ生まれていませんね。
ですよね(笑)。京セラが手がけたこのプロジェクトでは、屋根に設置するための金具やケーブルなど、すべてカスタマイズされた商品を使用していました。その当時はまだ技術が確立されていなかったため、試行錯誤の連続でした。
━━━省エネと再エネ、それぞれの分野で日本の技術力が世界でも注目されてきた歴史を知ると、非常に興味深いですね。

現代のエネルギー
━━━これまで電力の歴史について、戦後日本がどのような遍歴をたどり、どのような転換点があったのかをお話しいただきました。ここからはもう少し直近の話に焦点を当てたいと思います。
━━━1993年頃から再生可能エネルギーという概念が提唱され始め、私のイメージでは普及が本格化したのは2013年以降だと思いますが、エネルギーの歴史の中でどのようなポイントを経て現在に至るのかをお伺いしたいです。
そうですね、大きなポイントとして挙げられるのは、1973年のオイルショックです。当時の日本の電源構成比では、94%が化石燃料に依存していました。
オイルショックを機に、資源を持たない国としてのリスクが改めて浮き彫りとなり、原子力、省エネ、そして再エネへのシフトが進められました。その結果、2010年には化石燃料の比率を84%まで削減することができました。
しかし、翌2011年に東日本大震災が発生し、福島第一原子力発電所の事故により、原子力の安全性が見直されました。これにより一時的に原子力発電の利用がゼロとなり、再生可能エネルギーの普及が加速しましたが、2019年には化石燃料の依存度が再び84%に戻ってしまいました。
現在のエネルギー構成比(エネルギー白書による)では、火力が71%、原子力が5.9%、再生可能エネルギーが約22%となっています。
━━━現在の状況を踏まえて、国としてはどのような数値目標を設定しているのでしょうか?
日本は第6次エネルギー基本計画に基づき、以下の目標を掲げています。
- 火力発電: 現在の71%を2030年までに41%に削減。
- 再生可能エネルギー: 現在の22%を36~38%に引き上げ。
- 原子力発電: 現在の5.9%を20~22%に増加。
- 温室効果ガス排出: 2013年比で46%削減。
━━━2030年の目標について、実現可能性を疑う声や懸念もあると思いますが、何が具体的にその実現を難しくしているのでしょうか?
課題をざっくり言えば、進捗速度です。1973年のオイルショック以降、50年間で火力発電の比率を94%から71%まで、つまり23%削減しました。
しかし、2030年までにさらに30%削減し、41%まで引き下げる必要があります。50年かけて達成した成果を、7年で上回る削減を目指すのは非常に急ピッチな計画であり、これが最大の課題です。
━━━今までのスピード感から考えると、難しいように思えますね。
そうですよね。かなり無理のある目標値だと思います。
例えば、50年かけて電源比率の30%を築いてきた原子力発電が、2014年の福島第一原発事故を受けて0%になりました。
その後9年で5.9%まで回復しましたが、これをさらに22%まで引き上げるとなると、住民の理解を得ながら安全性を確保する必要がある中で、あと7年で達成できるのか、どう思いますか?
━━━歴史を振り返った上で、その延長線上で考えると、非常に厳しいように感じます。
まさにその通りです。同様に、現在22.4%ある再生可能エネルギー比率(水力を含む)を7年で38%まで引き上げるという目標についても、実現可能性に疑問が残ります。
━━━なるほど。最初に歴史を振り返ったときの話と照らし合わせても、難しいと言わざるを得ないですね。
これが現在の大きな課題の1つです。
我々は「責任世代」として、2050年のカーボンニュートラル実現を目指していますが、それは27年先の目標です。例えば、陣汰さんが1歳だった頃から27年後の姿をイメージするのは難しかったですよね?
━━━全く見えませんでした。
そうなんです。27年後の未来は簡単には見通せません。
だからこそ、「カーボンニュートラル」という言葉をただの建前として使うのではなく、脱炭素の取り組みをプラスマイナスゼロにするだけでなく、きちんと削減する努力を真摯に行うべきです。この努力が求められているのが、まさに今なのです。
国が決めた「再生可能エネルギーを増やし、火力を減らす」という目標を達成するためには、官民だけでなく、我々個人や企業も具体的に行動を起こさなければなりません。今こそエネルギーの転換期に立たされていると言っていいでしょう。
━━━なるほど。まさしく「エネルギーの時代の転換期」というわけですね。
その通りです。まさに今がそのタイミングだと思います。
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